人の葛藤。

葛藤は私だけが多くするのだと思っていたが、そうではないことをひどく最近痛感しつつある。私の叔母は激しい人で、私の母によく当たり散らすのだが、根は優しいようでどうやらそういう性格に腹が立っているのかそういうセラピーみたいなものに通っているらしい。

彼女はひどく見栄えを整えることにこだわる。人の評価が全てであり、コミュニュケーションが全てだと。そのくせに、田舎の我々に生産性のない従兄弟(彼女にとっての息子)が人に悪口を言っても否定せず全くそのままである。私の母もはっきり言ってくたびれているようだ。

さて、世の中には多くの葛藤が見られるが、特に人の性質、特に性格に関してはよく葛藤するようだ。私も高校生のとき眠い目で朝登校中に中学生にわざと追い越され、心の中で◯したろかと思った事に酷くがっかりしたものだった。つまり、自分の懐の深さがこんなに浅いなんて、と。でもそういうものである。わたしも、またこれを読むあなたも、多くの人が人に多く悪く思われ、全く意図せずに良く思われる。

しかしながら、そういうように割り切れない人もいる。私の大学の同期の中にひどくメンヘラを気取る人がいた。SNSで自分がいかに酷い人間かを流布して、まるで誰かに励まされたいのかと思ってしまうような様相である。私は基本的にSNSで激しく気分を害されることはなかなかないが、自分の性格が結果主義であることに関して親の育て方を話の中軸に置いていたことに関しては非常に失望したし、このような人間と同じ大学にいるのかと思うと非常にがっかりした。

むしろ、むしろである。

貴方の性質に過ぎない事を少なくとも自分をそこまで立派に育て、遠くに住まわせて学費をあくせく稼いでくれている親に全く敬意がない。私なら頭が上がらないが。

さて、この人のせいにする文化というのはいつでもある事で、要するに多くの人は、誰かのせいにすることに躍起になる。そしてこのような人は他人に神を見出し、そしてそれが壊れたとき激しく叱責し、失望し、そしてセラピーに通うのである。

少なくとも、わたしはどんなに懐が浅くて、器が小さくて、癇癪持ちになっても自分の性質や自分の決断を人のせいにしたりする大人にはなりたくない。

私は人生における目標がそれだけである。何も、ストイックなことでも何でもない。全く誤解で怒ったら誤る。こういうことに過ぎないのだから。これがきっと彼女にはできない事だろう。なぜなら、自分の性質に関して全く関係のないと自覚すらしているはずの親を話の中に盛り込むような、人のせいにしたがる、強烈な自己愛性パーソナリティ障害なのだから。

黒人主義と世界と脳。

私は個人的には、黒人に良いイメージがあった。

マンデラマルティンルーサーキング。暴力を否定し、自らの国を平等にしようと努力した。またジャズやスポーツにおいては、黒人は英雄的である。また、母なる大地たるアフリカ大陸で、我々の文化の原点を残し続ける彼らの生活は、ある意味では見習う部分すらあるだろう。

しかしながら。我々は、例えば数学者や科学者に黒人がいない事をゆゆしい事だと思うべきだろうか。

例えば。ジャズ奏者に日本人が慣れないことに差別だと言って良いだろうか。あるいは、サッカー、バスケや陸上競技に日本人が良い成績を残さないことは差別なのか?

学者や教授とは得てして実績を持たなければならない。これはある意味で、スポーツと同じだ。村山斉先生はこの事を揶揄しい事態だと捉えているようだが、彼のような稀代の天才はそうそういない。それを客観的に捉えることのできない科学者だったのかと思うと、少し悲しく思った。

さて、BLM運動が吹き荒れ、アメリカは騒然としている。暴力を行使してシアトルを占拠したり。ネットを見ると結構暴力シーンが出てくる。

警察を叩くが、例えばテーザーガンを奪われた警察が射殺した事件を冷静に振り返ると、これは撃つ方が正解だったろう。警官も人間。はっきり言って怖いのである。また、この世の中は法律と公共の利益の最大化というテーマの元で動き、そして流れ続ける。警察はその公共を守り、より多くの人が利益を得るために動くのである。

自分に置き換えて物事を考えるべきだ。世の中はそう簡単にはできていないし、黒人と分かり合えないなら、残念ながら内戦もやむなし。これはある意味で歴史の流れともいえる。それを黙って見ていれば、それこそ、白人やその他の人への差別であり、黒人の平等ではなく、黒人の優遇となってしまう。

我々は、深く考え、彼らの立場にも、警察や白人の立場にもならねばならない。そこで、はっきりと見えてくるものがある。脳は人を殴るためのものではない。平等が暴力によってのみにはたされると本気で思っているのであれば、アメリカは軍隊を出さざるを得ないといえる。

さて、コロナウイルスもこれを機に蔓延するであろう。世界最強の座はきっと中国に移る。そして、世界は大混乱に陥ってしまうだろう。

一方。トランプ、バイデンどちらにも疑惑は乱立し、結局私だったら入れるとしたらトランプぐらいなもので、どっちもはっきり言って真っ黒である。ロシアがバックにいる可能性があり、またユダヤ人系の支援があると思われるトランプ。ケニア国籍だったと言われるオバマの下で働き、性癖はどうやらロリータコンプレックスのバイデン。カオスだ。

私は、はっきり言って歴史の流れとしてアメリカはある意味で左派との戦争に入りつつある。腑抜けた政治は、まるで三角関数のように定期的に現れるものだ。耐え忍ぶしかないが、取り返しのつかない事にならなければ良いと思う。

 

私は、ただただ、また友人と飲み交わし、物理の議論と部活がゆっくりとできれば良いのだが。

1年

1年がすぎた。久しぶりに後輩が出来るわけで、なかなか不思議な気分だ(僕は高校時代後輩とのつながりがほぼなかった、というのは一つ下の後輩はいなかったからであるが…)。

さて、大学というのは極端に自由だ。今まで様々な制約があってこその学生だが、なかなかなれると気楽で良いものだと言っておこう。自由はなれないうちは本当に辛いものだと思う。病むし、何すれば良いのか分からない。

僕の友人はこの前一緒に遊んだ時、北朝鮮の人々は羨ましいと言った。「?」となったのだが、話を聞くとまあ分からなくもない、いや極端な例なだけで我々の多くに当てはまる事だと思う。要は、命を投げ打っても良いと思えるほどに夢中に、狂信的になれる対象があるという事なのだから。そのようなところが、羨ましいのだという。

恋でも、将棋でも。音楽でも、物理でも。これをするためなら死んでも良いと言える事があるのは、人間にとって明らかに強さの助けになってくるのだと思う。別に北朝鮮が凄いと言っているわけではない。この長い歴史の中で、夢中にさせるような存在がある国家や国民は強力な世界の勇者であり、そして脅威であった。

この一年、何かに打ち込み切ったものはなかったなと思う。それを作る気もあまりないのだが、もう少ししっかり意識を持って生きていくことを心がけたい。

到底かなわぬ恋をするのも、また一興と思いながらまた今年、今年度も充実した生活を送ろうと思う。

教育とは

アインシュタインはかつて、「教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう」と言った。

なるほど確かにそうだと思う。つまり裏を返せば、学問だとか、覚えた慣習だとかと言ったそういうものを教えることに教育があるのではない、ということだろう。

 

今の教育を批判することは幾らでも出来るし、言ってしまえば大半の人間は、不満を持っていることだと思う。そういう意見はきっとこの歴史の教科書はどうのこうのと言って論争しているのだ。

しかしそうではなく、僕は教育それそのものが、大きく歪んできていると思うのだ。つまりは、世の中の科学技術だったりだとか、文字とかが全く意味をなさなくなった時、一個人がどういう人間になれるのか、という所に教育の意義があるという事だと思っている。

人間が次に教えることが出来るのは、勉強もそうだが、模範となるべき形と、そうなるようにある程度努力することの有意義性である。そしてそれをすることが出来るのは、まだ未成熟な子供が全く盲信的に信頼出来る親という存在であり、彼らによってこそこのような真の教育がなされるべきだと思う。

このような話をすれば、きっと皆さんはステレオタイプなつまらん凝り固まった考えだと言うだろう。

しかしそうではない。僕がこのような皆さんにとっては大正明治時代のように感じられる教育観を話すのは、寧ろ今の世の中にはこのような考えの方が優位に立つべきだと思っているからだ。

人間が冷たくなったのは両親が共に働く事を良しとした時代からだと思う。今の人間はまるで氷のように冷たい。簡単に人を裏切り、人を育てることは金を得るための行動に過ぎないと考えている。

昔の形態はシビアで苦しかったかもしれないが、今はそのステレオタイプな考えをなくしたかと思えば完全な味方を世から失いまるで個人が他人と争う戦国時代となったように思える。

正義がどこにもないようにどこにも正義はあって、そして各時代にも良さというものがあった。

それを忘れた時点で教育のみならず、社会は死んでいる。

成長とは

僕の周りはとても良い子ばかりである。

まるで間抜けた人間は僕ぐらいなもので、皆安全安心な正解の選択肢を選んできた、正しい人間だ。

僕は餓鬼だった。

 

薄々気がついてはいた。

 

友の振りまく笑顔は100点満点の美しすぎる愛想笑いだと。

 

彼らは口先で良い言葉を選べ、それは全く本心でないと。

 

良く考えれば、これこそが成長するということなのかもしれない。相手に悟られぬような愛想笑いをみにつけ、口は一見楽しく美しい理想を語り、その癖に自分では利己主義的に生きる。

詐欺師ではない。それが、大人なのだろう…

 

気づくのが遅かった。

僕にとっての物理について

題名は洋楽から取るのも良いですが少し弾切れ気味なので真面目な話も兼ねて今回は日本語にした。

さて、近況報告から。最近は僕にとって多くの転機があったと思っていて、まず1つ目は僕は人にあまり嫌われるたちではないが、逆に好かれるたちではないということに気づいたことということ。これは致命的であったし、衝撃的であった。要は、私は恋に関して全くもって退治することすら許されぬ性質を持っていたということである。そもそも人に好かれることとは、嫌われる要素が1部あってその表裏でしかないのだということも分かった。つまり僕は、全く持ってつまらない人間であるということである。

 

本題に入る。上の近況報告に関して、以下の話題は完全にかけはなれていると思っていないが、もしこの拙い文章を読もうと思う愚かな(?)読者諸君に取ってはあまりかもしれぬ。

 

僕は元々科学と歴史が好きで、どちらに進むかは高校に入るまで決めていなかった。それも、高校に入って医者になりたいと思い、理系に進んでしまったので文系に進まなかっただけかもしれないくらい、僕にとってここの選択は重要でなかったのかもしれない。

僕は世の中が好きで、その構造に興味があった。元々生物が好きだったのだが、だんだんと、システマチックでありながらどこか偶然性の介在する世の中、世界、これがたまらなく好きで、それで物理に進んだことになる。

だからこそ量子力学を学ぶ時嬉しかった。

偶然と言うものがはっきり存在したということを示唆するこの学問に、衝撃を覚え、そして物理学に無限の可能性を見いだした気がした。いつしか生物よりも物理、と思うようになった。

 

そうして有名大に入ることが出来、僕は物理は裏切らなかったと思った。中高のオベンキョウはよく僕を裏切ったが、物理は裏切らなかった。

 

 

しかし僕はこの学問を一つの自分の私情に使おうとしてしまった。

つまりここが、今回の近況報告と無関係と言えぬという所なのだが、恋に使おうとしたのである。恋のために勉強する、よく見せようとするというふしだらな理由で、学問を冒涜してしまった。

 

だが僕はいつだってそうだったのかもしれないと思った。高校のとき、友達によく見せようと。中学のとき、親に自慢しようと。小学校の時、褒められようと。

あまりにも浅はかで、風上にも置けず、そして愚かだった。

人に愛されていたと思っていた。心でも思ったことは無かったのに、思考のどこかで、いや心の奥底でそう思っていた。

ニーチェの言葉を思い出した。「愛されたいという欲求は、自惚れの最たるものである」

 

僕その物だった。自惚れていたのだ。なんでもオベンキョウと学問を取り違え、不純なものに学問を悪用する、自惚れも甚だしい、気持ちの悪い豚だった。そう思った。

 

物理が好きだったのに。物理は少なくとも僕のことを裏切ったことは無かったのに、僕は裏切ったのだ。

 

そのとき

私は鏡を見た。そこに映ったのは…

Mr.moonlight

月の光に照らされたウイスキーを遠巻きに見て、こんなことを考えた。

僕の人生は、実に高校まで非常に刺激的で、毎日が新鮮で楽しかった記憶があるのだが、僕は最近の生活に少々ながら退屈なようである。

僕はどうやら退屈であればあるほど、何かしらのストレスを抱え込む癖があり、もちろんのことながらそれが外に出れば周りに迷惑をかけてしまう。それによってまた自分が不甲斐なくなってストレスを貯める…

 

この前に東京に出ていってしまった友人と、僕と同じ大学に在学している友人、どちらも親友と呼ぶに足るまさに腹を割って話せる人間なのだが、どうやら同じ大学に在学している友人は話ぶりから何となく僕と同じように感じている匂いがした。つまりは、理想としている大学生像を実現出来ていない自分に嫌気がさして、色々なことに走ろうとしているように見えるという事だ(僕は走ってすらいないのでただの屑だ)。

 

要するに、何となくだけれども感じたこととして、僕が感じるようなストレスは皆意外と感じていることなのかもしれない。

そして、僕としてはあまり理想を掲げることを辞めようかと思っている。生きる意味を見出すことに価値を見いだしていない僕なので、理想を追い求めすぎることを辞めようと思う。

そのうえで、人間的にちゃんと完成した精神となるように、稚拙な、あるいは些細なことで感情を揺さぶられないように気をつけたいと思うのだ。

 

僕の親族はそう言えば、目標を見出して生きると充実すると言っていた。でも僕は今、ひとつの目標(つまりは大学入学)を果たして、ゆっくりと穏やかで楽しい生活を送りたい。ある意味ではこれが目標であって、それ以上でもそれ以下でもないかなと、思うのだ。

 

月の光はあまりに遠く、そして綺麗だった。冬の暗く果てしない暗黒に大きくそして荘厳に光る月はポツポツと光る星を吸い込むかのように、全く変わらず照らしている。些細な悩みは、自然を眺めるといつの間にか忘れる。楽しい日々はおしまいで、この大学生活は、明らかに、自分に向き合う時間だと思っている。

 

 

そうそう、この月の光の元で、自分の大切な人と酒を酌み交わすことが、僕の目標かな、いつになるか分からないけれど…