僕にとっての物理について

題名は洋楽から取るのも良いですが少し弾切れ気味なので真面目な話も兼ねて今回は日本語にした。

さて、近況報告から。最近は僕にとって多くの転機があったと思っていて、まず1つ目は僕は人にあまり嫌われるたちではないが、逆に好かれるたちではないということに気づいたことということ。これは致命的であったし、衝撃的であった。要は、私は恋に関して全くもって退治することすら許されぬ性質を持っていたということである。そもそも人に好かれることとは、嫌われる要素が1部あってその表裏でしかないのだということも分かった。つまり僕は、全く持ってつまらない人間であるということである。

 

本題に入る。上の近況報告に関して、以下の話題は完全にかけはなれていると思っていないが、もしこの拙い文章を読もうと思う愚かな(?)読者諸君に取ってはあまりかもしれぬ。

 

僕は元々科学と歴史が好きで、どちらに進むかは高校に入るまで決めていなかった。それも、高校に入って医者になりたいと思い、理系に進んでしまったので文系に進まなかっただけかもしれないくらい、僕にとってここの選択は重要でなかったのかもしれない。

僕は世の中が好きで、その構造に興味があった。元々生物が好きだったのだが、だんだんと、システマチックでありながらどこか偶然性の介在する世の中、世界、これがたまらなく好きで、それで物理に進んだことになる。

だからこそ量子力学を学ぶ時嬉しかった。

偶然と言うものがはっきり存在したということを示唆するこの学問に、衝撃を覚え、そして物理学に無限の可能性を見いだした気がした。いつしか生物よりも物理、と思うようになった。

 

そうして有名大に入ることが出来、僕は物理は裏切らなかったと思った。中高のオベンキョウはよく僕を裏切ったが、物理は裏切らなかった。

 

 

しかし僕はこの学問を一つの自分の私情に使おうとしてしまった。

つまりここが、今回の近況報告と無関係と言えぬという所なのだが、恋に使おうとしたのである。恋のために勉強する、よく見せようとするというふしだらな理由で、学問を冒涜してしまった。

 

だが僕はいつだってそうだったのかもしれないと思った。高校のとき、友達によく見せようと。中学のとき、親に自慢しようと。小学校の時、褒められようと。

あまりにも浅はかで、風上にも置けず、そして愚かだった。

人に愛されていたと思っていた。心でも思ったことは無かったのに、思考のどこかで、いや心の奥底でそう思っていた。

ニーチェの言葉を思い出した。「愛されたいという欲求は、自惚れの最たるものである」

 

僕その物だった。自惚れていたのだ。なんでもオベンキョウと学問を取り違え、不純なものに学問を悪用する、自惚れも甚だしい、気持ちの悪い豚だった。そう思った。

 

物理が好きだったのに。物理は少なくとも僕のことを裏切ったことは無かったのに、僕は裏切ったのだ。

 

そのとき

私は鏡を見た。そこに映ったのは…